学習の難しさ
世の中でよく教養があるないって話あるじゃないですか。面と向かって言う事はないでしょうが、あの人は教養がある、教養がないとか。
じゃあそもそも教養って何?って事なんですが、かなり幅広い上に曖昧ですよね。
文科省とかだと専門分野の枠を超えて共通に求められる知識や思考法などの知的な技法の獲得や、人間としての在り方や生き方に関する深い洞察、現実を正しく理解する力なんて定義してます。
ジャンルも多岐に渡る上に何がどう大事なのか?は正解が書かれてませんしなんじゃこらって感じです。
でも、いろんな知識があると人と話をするきっかけになりますし、いつか役に立つ可能性があるというのも分かるんで自分でも本を読んで勉強したりしています。
今、読んでいるのは雑談の価値について書いてくれてる本なんですが、そこに書いてある内容なら確かに雑談って役に立つなって思わなくもないんです。
でも、前提条件としてその雑談はグローバルな場所での雑談であってブラック企業や上位下達社会ではなかなか実践できない。
というか、実践しようものなら早々に仕事無くして転職先でも疎まれるんじゃね?なんて思ったわけです。
じゃあこういう教養って必ずしも価値ないのでは?寧ろ学ぶ事で我慢していた負の感情を抑えられなくなるのでは?
でもせっかく読んでるし何か価値を出したいなぁ。
もっと前に皆が学ぶような話を考えてみましょう。
国語って皆学ぶわけです。
その内容って日本語の習得から文章の読み方、どこが大事かを察する事を学ぶ科目って思ってます。
私、地味に苦手な科目なんですが、あれも教養としてある程度は身につきました。
しかし、あれがどんな役に立つでしょう?
日本語の読み方は必須です。役に立つというかないとどうにもならないレベル
文章の読み方、これもないといけない。
どこが大事かを察する、これは結構バラバラだと思うんですよね。
基本的に対人関係って話し言葉です。これに長文の読解力が役に立つか?っていうとあんまり役に立たないと思います。
どっちかっていうと話す側がどうやれば聞きやすいか、分かりやすいか考えて喋るっていう要点を押さえる事が大事でしょう?
読解力はどちらかというと作者の行間を読み取るっていう真逆って印象ですし。
じゃあ国語の中で読解だけ役に立たないか?というとそうとも言えないとも思います。
いくら話す側が考えるのが基本でも人間いろんな思い込みや能力の差があります。
他にも立場が上で下に横柄な人って言葉足らずな事多いと私個人はめちゃくちゃ思います。
それでも、そんな奴相手でも意図を汲み取らないと仕事にならないですし自分のタスクに支障が出かねないのでなんとか察するしかない。
そんな時に行間を読む、僅かな情報から全体像を察する。あるいは察せない情報量の時、どこでどのような情報を得るべきなのか?
読解と直結しない可能性はありますが、察するために必要な行動を想像するのに読解は役に立つと思います。
このように学んだ事をそのまま使えない可能性はあるかもしれませんが、現状の環境で使えるように魔改造できるかもしれません。
そのように魔改造するためには基本の使い方をマスターしないといけません。
だから目の前にある知識は真摯に受け止めた方が良いと考えます。
自分達が見つけた価値は相手にとっての価値ではない
価値あるものを誰かに提供する。
これは社会が成り立つ基本原則です。
もし価値のないものを提供して利益を得るならそれは詐欺に他なりません。
しかし、どこまでを価値あるものとして判断するかはなかなかに難しい。
漫画で「闇金ウシジマくん」という作品があるんですが、その中で登場人物の1人がこのようなセリフを言っています。
「俺らが売るものは金儲けの方法じゃねー。金儲けができそうな雰囲気だ」
ここで売られるものって価値あるものですか?
普通に考えたら価値のないものですよね?でも購入する人がいるんです。それは購入者が価値のあるものだと誤解したからです。
しかし、同時にこうも言えます。購入者は金儲けの方法よりも金儲けができそうな雰囲気に価値を見出した、と。
いやいや、詐欺だろ。ネズミ講認めんのか?
そう言われると別に詐欺を認める気は一切ないですよ。
ただ、価値は人によって完全に変わってくるのも事実です。
軍艦島って呼ばれる場所があります。
ここ、通称が物々しいんで戦時中由来の島みたいに思う人もいるらしいんですけど、二次大戦が終わってから発展した炭鉱街なんです。
元は岩礁だったものを鉄筋コンクリートで保護しつつその上に街を作り石炭を採掘していたんですが、結果できた島の形が戦艦「土佐」に似ていたので軍艦島と呼ばれるようになったんです。
この軍艦島は既に島民が誰もいません。石炭の採掘が完了し役目を終え、今では完全な廃墟群です。
そんな廃墟群ですが、現在は観光スポットになっています。
長崎港からクルーズが出され、島を周遊したり上陸して見学するツアーがあります。
日本の高度成長期にも関わる島で、日本初の鉄筋コンクリートによる高層建築物が作られた街、という歴史的に価値ある建物である事は事実です。
他にも建築物自体が真水を確保しにくい環境だったため、海水でコンクリートを溶かして使用したりと面白い点はいくつもあります。
私も観光に行って凄く楽しかったです。
クルーズで案内してくれた方々ありがとうございました。
ですが、それを抜きに考えたらどうでしょうか?
ただの廃墟群です。
鉄筋コンクリートの廃墟とか珍しくもないでしょう?
しかも、建物自体は老朽化しておりいつ崩落してもおかしくない。場所も辺鄙が過ぎており、船を使わないと上陸できない上にその上陸も水位が0.5m上がっただけでできない。
ここに価値を見出す事はできないのでは?
島自体にとっても石炭を掘り尽くし役目を終えております。
しかし、この島には価値があるのです。
観光業からすれば島の歴史という価値が提示できます。
価値を受け取って側はどうでしょう?
観光客は島の歴史に価値を感じていると思います。同時に普段は行かない場所を案内してもらえるという希少性にも価値を見出しています。
他にも価値を見出した方々がいます。
この島は映画「007」や「進撃の巨人」のロケ地として使われました。
これは廃墟となった高層建築物という景観に価値を見出されています。
研究でビルの崩壊を食い止める研究をする方が注目したりと様々な価値が見出されています。
歴史的な価値を提供したい人にとって希少性やロケ地、研究対象は直接的には関係しません。
しかし、それらが結果として軍艦島という場所をより有名にし、島の在り方が存続する事に繋がっていくわけです。
あらゆる物事には様々な価値があります。そのうちの一面を見つけてもそれがそのまま伝える相手への価値となるわけではありません。
自分の見出した価値として受け取ってもらうためには、その価値を理解できる知識を伝える事が大事になります。
そして、自分の見出した価値以外を見出した人に自身の価値を押し付けるのではなく、共有できる価値を共に学びあう事が結果として価値をより深めていく事に繋がるでしょう。
商売は何を売っているのかで稼ぎ方が変わる
世の中いろんな仕事がありますね。
学生に知識を伝える教師や八百屋などのように物品を売る店員、本や記事を執筆して情報を売るライター、肉体に生じた疾患を治療する医師と千差万別で非常に多くの仕事があります。
これらの職業ごとに凡そどの程度の年収になるか判断されています。
年収を上げようとする場合、手段はいくつかあるでしょう。
より給料を出してくれる会社に就職する。
今より稼ぎやすい職に転職する。
他に稼げる仕事を行う。
などいくらかあるかと思います。
これらのうち1番変わると認識しやすいのは稼ぎやすい職に転職することでは無いでしょうか?年収の相場自体が変わりますからね。
しかし、同じ職業でも稼げるところ、稼げないところっていうのもあります。
私が印象深いのは海外で少数の物品が希少であると高値で販売するのと逆に日本で物品が全体に供給されるよう製作しなるべく安価に販売するという2種です。
なぜ同じような製品でそれほど値段を変えて販売し双方売れるのでしょうか?
販売層を変えているというのはあるかもしれませんね。
ただ、これ以上に重要だと考える事があります。
それがそもそも何を売っているかです。
物品販売は物品販売だろ。と言われたらそうなんですが、もっと根本的な話です。
例えば最初に例を挙げた教師と医師は同じものを売っています。いやいや同じなわけないだろっていう言い分も分かるんですが同じなんです。
それはどちらも時間と空間を売っているという事です。
教師は知識を伝達させる空間を生徒に一定時間提供し、医師は身体を治す空間を治療終了まで提供するのです。
こう聞けば同じだと思いませんか?
つまり、空間と時間を提供するのか、あるいはどちらも提供しないのか?
これが稼ぎ方に密接に関係します。
医師を例に話します。
まず空間から。
患者に病気を治療する空間を提供します。外科などの処置になりますと手術を行う空間が必要でそこに他の患者を同時に入れる事はできません。
2番目に時間。
外科処置が終わるまで1人の患者にかかりっきりになるので他の患者は見れません。
このように医師は患者に対して空間と時間を提供する職業です。
次に作家を例にします。
作品を完成させるまではその執筆の時間と空間が必要になりますが、完成後は客に対して時間と空間を提供する必要はありません。
作家はどちらも不要なので同時に何人の客でも持てると言えます。
例に挙げた医師のように時間と空間を提供する職業だと必然的に提供できる限界の時間があります。
時間と空間の提供が必要ない職の場合、客を増やせば増やすだけ稼げますが、時間と空間が必要な場合は限界が出て来ます。
例えば病院で売り上げを上げろと上司が部下に命令しました。その中で曜日ごとに勤務日を分けている中、同じ曜日に医師が大勢同じ曜日に勤務日が固まってしまうと医師が提供できる時間は増えても提供できる診療台が足りないという結果になります。
この場合、勤務日が重なっているところでどれだけ売り上げを上げようと努力しても限界があり、患者を入れられなかった医師は人件費だけが消費され病院には赤字にしかなりません。
では解決手段は何があるのか?
勤務日をもっと分散させればいい。
つまり、今回のケースで部下が売り上げを上げるより上司が勤務日を変更させるよう動けばそれだけで赤字は減る。売り上げを上げる機会も得られる。
逆に作家などの場合は、時間も空間も提供する必要がありませんので、客が求める製品を販売し、より多くの客に製品がある事を知らせばいい。
このように販売するものによって稼げる限界値が存在します。
あとは付加価値を提供する事で値段を上げていく感じですね。
売り上げを上げたい時にやり方がそもそも不可能かどうか、これを考えるのは重要です。
心は有料
ブラック企業、それは人をこき使い金を得てこき使った人への還元を行わなず、人が消えていこうが何も気にしない会社
こういう環境に身をおいて耐え抜ける人は要領の良い人です。要領が良いというのは仕事を早く終わらせられるだけではなく余計な仕事を押し付けられないように立ち回れるということでもあります。
一方、要領の悪い人は当然ながら余計な仕事を押し付けられます。そして本来行うべき事をする時間が削られ評価も下がる。悪循環ですね。
この手の悪循環は何も仕事だけで終わる話ではありません。上司からの無理難題を聞き、上司からの身勝手な評価で感情的に怒鳴られ、それを間に受ける。
要領の良い人なら例えギャアギャア喚かれようがああそうですねーと聞き流すのですが、そこは要領の悪い人、一々間に受けて自分の中でリフレインしちゃうんですね。
結果、自分の評価をそんなどうでも良い相手からの評価で余計に下げてしまうわけです。
こんなことを書いている私も普通に要領悪い組です。
そして、そんなクソみたいな環境に身を置くうちに要領の良い人なら抱かずに済む結論に至ってしまうんですね。
他人への誠実さや思いやりなんてゴミだと。
だってそうでしょう?
他人に誠実だったり思いやりがあったから余計な仕事を引き受けてしまう、本来の業務も誠実にしっかり結果を出すために働いて結果を出すから遅くなって評価が下がる。
誠実に活動する事なんて全く価値がない。価値があるのは自分が勝てる環境だけ、自分が報われる環境だけ。それ以外は何一つ価値がない。
とまあ、こんな思いを抱いたりするわけです。結論は十人十色でしょうがいずれにせよプラスの思いに到達できる人はなかなかいないでしょう。
さて、そんな結論を抱いてしまった私ですがもう一度考えました。私の結論は正しいのか?否か。
答えとしては正しいと言える状況と間違っていると言える状況がある。
まあ、これを読んでくれてる方の大半は「は?正しい状況なんてあるかよ」と反応されているのではないか?と予想しております。
まあ誠実に行動して思いやりを持って活動できる人は強いですからね。そういう人を否定する気はナイデスヨ。
さて、正しい状況とは何か?それは端的にいうとブラック企業です。
彼らは下をこき使い、余計な仕事を押し付け本来の業務を阻害する癖に結果を求め、それに対して出す金が少なく、何かと金を出し渋る。
さあ、これを見て彼らが私達に誠実だとか思いますか?
誠実だと思ってるなら何故現在自然淘汰されていないのか?是非とも教えていただきたい。
誰でもコメント書けますので是非教えてください。
そんなブラック企業、詰まるところ相手が自分に対して誠実さがないんです。思いやりがないんです。
ブラック企業やそれに準ずる場所に所属した経験のある方は見覚えがありませんか?
仕事をしようとして上司に邪魔をされる。それも仕事ではない話で。
下をこき使い、会社に迷惑をかけるなと宣いながら、自分は当たり前のように迷惑をかける上司。
そう、ブラック企業とはそもそもこちらに誠意がない。思いやりがないのです。
そんな相手が自分に誠実さ、思いやりを求めてくるのが彼らの手口です。
誠実に対応する必要がありますか?思い遣ってやる価値がありますか?
あるわけがない。彼らは仲間ではない。敵なのです。
敵に対して行う事はどのように対処するか?受け流すのか潰すのか?
大抵の人は大きな集団を潰すだけの実力はないので受け流すが正解になるでしょうね。(言っておきますが犯罪は推奨しておりません。契約違反による損害も出さない方が後々楽です。)
いずれにせよ、対処して目指す結果は自分が幸せになれる選択肢です。
幸せにならない選択なんて選ぶ価値がない。
ただ、大ぴらに言えば角が立つから言わない程度の話です。
自分を思いやりましょう。自分の幸福に誠実でいましょう。
その他の事は、自分が幸福の一端を掴んで以降で十分間に合います。
自分の人生というかけがえの無い価値を見過ごさないでください。
何が技術かを学ぶために挑戦する必要がある
働いたり趣味に邁進したりしているなら相応に技術を磨いていることでしょう。
何かしらが上手くなっていくとそこには多かれ少なかれ技術があるはずです。
例えば、私は格闘ゲームなんかが凄く苦手なんですがああいうのが上手い人って下手な人がコントローラを操作しているところを見ても意味が分からないくらい素早く操作していますよね。
ああいうのも技術ですし、会社を上手く経営するのもある種の技術と言えるでしょう。
このようにいろんな分野で技術というものが磨かれていくわけです。
この技術、専門学校みたいな場所とかで教えたりする場合もあったりすると思いますが、専門学校を卒業してからが本番だったりする事って結構あると思います。
私も学校で知識を教わりましたが、それを卒業後に活かそうとしてもなかなか上手くいかない事が多かったです。
それは何故か?
いくつか理由があると思いますが、まず第一に知識として与えてくれる場所で得られる知識は理想の環境である場合が多いから。
こういう理想の状態に対してああすれば良い。みたいな事って現実だとなかなか用意しにくいと思います。
実際は状態が悪いだとか何かしらの作業をする時間が短くないといけないだとかいろんな悪条件があるものです。
悪条件をなるべく無くすのも技術ですけどね笑
しかし、悪条件下なりに相応の結果が求められる場合も良くある事ですし、それ全部をできないという事も難しい。だからそれをクリアするための技術も必要になるため、理想的な技術の行使ができない。
次にそもそも実際に技術を使う状況であると判断できない。
知識としてはならったが実際に触れてみると感覚が想定していたのと違う。こんな場合もあったりします。
これは前述の環境が違うからという理由もあったりするかと思いますが、そもそも実際に触れていなかったから感覚が理解できない場合もあるかと思います。
こういう事に対しては理解できるまで繰り返し触るという事が求められたりするでしょう。
最後にタイトル回収といきましょう
今までは学んだ技術を発揮する事自体が難しい場合について話しました。
しかし、これらはあくまで技術として教えてくれる場合だけです。
世の中では教えてくれず自分で技術を磨かないといけない場合も多々あります。
私が今、割合毎日更新しているブログもそうです。いやまあ探せば何かしらあるのかもしれませんが
例えとして今挙げたブログですが、私がブログで最後どこまでの事がしたいかとか言い出せばそりゃこれで食べていけるくらいになりたいです。
しかし、例えばアフィリエイト広告という広告をクリックしてもらったりして広告収入を得る方法などで稼ぐにはブログをいろんな人に評価してもらえるようになったりだとか、紹介する製品を購入したいと思ってもらえるような紹介ができないといけません。
それらの必要事項に対してそもそもどうやれば人が見たいと思えるようなブログが書けるのか?
自分が新しい製品を触ってどこが良いと評価できるのか?どうやってその良い部分を人に伝えられるか?等々、分からない事が極めて多い。
もっと言うなら今、こうして書いてるブログって文字の大きさだの色だの全く変えていませんが、どこを変えるべきなのか?どれくらいの大きさや色にすべきか。何も分かっていないわけです。
これら技術を学ぶのに何が問題かを理解しないといけません。しかしやらなければどこが悪いかが見えてこない。
であるならば、まずはやってみる。やってみて慣れる。慣れてからどこが悪いかを考える。他と比較してみる。どんな事ができるかを考える。とトライアンドエラーができるようになります。
多分今私が書いているこの文章もブログが上手い人には問題点が山盛りでしょう。
それでもまず私は書くべきと判断してます。
何故なら書かないとそもそもブログを習慣的に書けないから。
問題点を見出すにはやらないと見えてこない事が多い。ですが、最初は新しい事を続けるというのがまず難しい。だからやる。
続けてやるにはなるべく低リスク低コストが望ましい。だから最初のうちは自己評価はやって良かった悪かっただけ。ただやる。
挑戦し続けてその先に学ぶ事が見えてくる。そんな考えの下、今こうしてブログを更新しています。
皆さんはどうでしょうか?
何かをするのにハードルを高くしていたり最初に量より質を求めたりしていませんか?
学ぶべき事が分からないのに質を求めるのは凄くしんどいですよ。
最初は量を気楽に熟せる方法を考えると1番楽に進められると思います。
意見を主張する事と力を手に入れる事は同じくらい大事
皆、自分のしたいように動きたいですよね。でも世の中でそうできる事自体がなかなかに難しい。
難しい理由は様々ですけど、日本だとそもそも自分の意見を主張する事がなかなか難しい。他の国は知りませんけども
で、意見の主張って大事なのは間違いないです。
例えば今いる会社がありえないほどブラックです。このまま勤務していたら過労で倒れます。っていう状況だったとしましょう。
この状況での正解は退職一択です。当然ですよね?生命の危機に晒されてる状況で改善の糸口は退職以外にないですから。
でもそうできる人は割合少ない。何故でしょうか?
例えば辞めるにあたって引き継ぎがどうの責任がどうのと会社が喚いてくる。これは正に先ほど言った意見が主張できないってやつですね。速攻で退職代行サービス頼るのが良いんじゃないかな?と思います。
他には会社でのキャリアなどを気にして辞められない。これは生命の危機とキャリアを天秤にかけた状況についての判断ですね。耐えられてないならキャリアとの天秤が全く釣り合ってないのでは。ついでブラックだと技術習得より雑務量の方が多いとも思います。
最後、多分1番多いんじゃないかな?と思うんですけど、お金がないから辞められない。
現代社会って何かとお金がかかります。退職すれば当然入ってくるお金が激減するわけです。最初は何かしら手当などをえられる当てもあるかもしれませんが、次の職を見つけないとそれらも永遠に続くわけではない以上お金が減ってくる。転職したとしても給料が減ったりすると今までの生活レベルを維持できない。
そもそも転職できるところが見つかるとも限らない。
そう、お金という力がないから辞めるという自分の意思が言えない。自分の意見を主張しないと自分のしたい選択を選べないのが世の中ですが、同時に力がないとその意思を貫けるだけの耐久力がないんですね。
だから力を手に入れる事が大事なんです。しかし、その力っていうのもジャンルによって変わってくると考える人も多いでしょう。
例えば政治で税金一つ取っても所得税引き下げてくれよとか消費税引き下げてくれよとかいろんな意見があると思います。それぞれに対しての政策を唱えた好みのところに票を入れるわけですが、彼らが当選するとは限りません。
何故なら選挙で勝つには他の出馬した政治家より多い票がいるから。
でも、例えば若者向けの政策が高齢者には良くない政治だったら高齢者の数が圧倒的に多い日本で現状勝ち目はないでしょう。
では、選挙に行くという意見を主張する行為は無駄なのか?力という観点からすると無駄だと思います。しかし主張はしておくべきだと思います。主張しなければ勝てる可能性は0ですからね。
同時に金を稼ぐという力を手に入れる努力もするべきだと思います。今後、どのように状況が悪化してもどこでも生きていけるようにするための力です。そして金という力が1番効力を発揮できる時期に金がないから諦めるという選択を選ばざるを得ない未来を避けるためにです。
現代社会ではサラリーマンが基本的な稼ぎ方になっていると思います。もちろんサラリーマンでいろんなスキルを手に入れたりすると思いますが自分で起業して稼ぐとなると他にも必要な事があり、それだけの行動を要します。
これらを行うのは一朝一夕ではできない事ですので意見を通したい。自分に最善の生き方がしたいという方は少しでも多く動くのが未来に繋がるのではないでしょうか?
企業主体から個人主体へ
最近、産業の形態が変化してきたのでは?と思っています。とはいえ大きい変化ではありません。些細な変化だとは思います。
kindle読んだりされていますか?
あれ便利なんですけど執筆者側にも便利な側面があります。出版って自費出版と企画出版の2種類があります。そのうち、企画出版って企業にこの作品ならいけると判断してもらえた作品だけが本として出版してもらえる訳です。
一方、自費出版は文字通り、出版までにかかる費用を執筆者が出して製本するわけです。同人誌とかイメージしてもらえばわかりやすいでしょうか?
さて、kindleで何が執筆者に便利かという話ですが、執筆者が電子書籍として本を販売できるんですよね。
つまるところ自費出版になるわけですが、一般的な自費出版とは違う点があります。そう、出版の費用が掛からないんです。
今までだと製本してもらうための費用がかかり、売れなかった時のリスクが大きい形態でしたが、この電子書籍での出版という方式によって執筆者がローコストで作品を世に出せるようになりました。
もちろん、紙で書かれた本には紙特有の魅力があると思います。私も紙媒体の方が欲しいと感じることも多いですし。しかし、電子書籍は場所を取らないし、いろんなデバイスで見ることができるので読者も敷居が低いという利点があります。
企画出版と違う点として大々的な宣伝がないという事が挙げられるかもしれませんが、現代にはSNSがあります。企業の宣伝がなくとも個人で自身の作品を喧伝できるわけです。
こういった細かな技術の積み重ねによって産業を始める敷居が低くなったと思います。
一方でこういう出版に関して思うところがあります。
それは昔の作品より遥かに誤字脱字の量が多いのではないか?というものです。個人出版での作品を見ていると誤字脱字が偶に見つかる印象です。
もちろん几帳面な方は独自にネットサービスで校正をかけたりされていると思います。
しかし、校正をかけるかかけないかを決めるのは出版側です。つまり個人出版ですとその手間をかけるかどうかが個人の意思で左右される側面がどうしても生じます。
こういった作品のある種、質の低下と言える現象が見られるようになったと感じているわけです。
これは産業の変化に繋がっているとも言えます。それは質より量を求めた結果であり、同時に企業主体ではなく個人産業主体への変化と言えるのではないでしょうか?
私は質を求めた方が結果的に消費者もついてくると思いますし、上記のような誤字脱字はしっかりチェックした方が良いと思います。しかし、それらにコストが費やされれば費やされる程に個人参入の障壁は高くなるのも事実です。
今は個人が参入しやすい形態に変化している弊害が生じている時期なのでしょう。
今後はAIなどの更なる発展によって個人の製品に見られる瑕疵を指摘してくれる技術が発展して個人産業の質が上がってくるのではないか?と期待したいところです。
ただ、現状はまだ個人の製品にある瑕疵は製作者が確認する必要があります。製品を出されている方は販売前に一度確認するシステムを構築されては如何でしょうか?